学会での興味深い研究報告

9月1日と2日に東洋大学で開催された日本印度学仏教学会学術大会で今年もたくさんの研究が発表されました。その沢山の研究報告の中、阿亜蕃仙人がもっとも心を動かされた発表は、第2部会2日午後5番目の発表、東京大学助教の青野道彦さんによる「不受食学処の目的について(比丘に許される食物取得)」という発表でした。d-180903-ie1
 出来る限り分かり易く説明します。基本的には「およそ何れの比丘と言えども、施与されていない摂取物を口にすれば、罪にあたる。ただし水と歯木は除く」(律蔵、不受食学処)とされ、インドの仏教修行者たちは釈尊の指示の下、自分で料理することは許されず信者さんから残食をいただいて、それを昼までに食べる必要がありました。食への執着を、量に関しても品種に関しても自由にさせない為だったのでしょう。さて発表者は律文献や初期経典の注釈書などの記述から、その食べ物の頂き方、つまり受け取り方に関する規則や、飢饉などの時の例外措置を調べて報告されていました。施主が「頭の上の籠からどうぞ取って下さい」と言っても屈まずに立ったままだったら寄進にはならないから駄目!とか、貰う時にこぼれ落ちたものを比丘が拾っても良いのか、とか割と細かいのです。落ちている果実などを道端で見つけてもそれをそのまま拾って食べるのは採取に当たるから出来ません。一度近くを歩いている一般の人に拾ってもらった上でそれをお布施してもらって食べることは可能だったそうです。或る時近くに人がいない場所だったので食べられなかった、ということを釈尊が聞き、例外措置として拾って持って帰ってから一度地面にそれを置き、別の人に拾ってもらってから頂いて食べても良い、というずっこいやり方でも良いと、あらたに決められた、という記述を青野さんは律文献の中に発見されました。めちゃ面倒くさいですね。けど、これは果実などそのまま食べられる場合ですが、調理しなければ食べられないもの、例えば落ち穂の場合には更に調理者が介在しなければ食べられないのでどうなのか。ほんとにこんなことで悩んでいたのですねえ。
 翻って私、阿亜蕃仙人なんか、スーパーに行って、本来所持してはいけない金銭を自分の財布から出して、いろんな食材を自分が食べるために買って帰り、自分で調理して食べている訳ですから、釈尊が聞いたら「完全アウト!」と宣言されると思います。たとえ実っている果実でもそのまま採って食べるとだめ!なんだったら、役の行者や木喰上人なんかでもアウトです。
 そもそも何故そんな細かい努力を弟子にさせたのか、という疑問には発表者は今回まったく言及していません。
 残食を貰ってきてそこにたとえ肉片が混じっていても文句を言わずに食べろ、と言いながら、果実を自分で採って食べてはだめ、とはどういう事か?ジャイナ教徒が、動物はもちろん植物にも命があると主張したのと繋がりがあるかも知れないと私は思っています。命を奪う行為という点からいうと、初期の仏教教団では、調理行為によって食材(動物だけではなく植物をも含む)の命をうばうことも憚られたのではないかと思うのです。