「いいかげん」と中道は違う

イスラム原理主義という言葉が新聞やテレビなどのメディアを賑わしています。イスラム世界の中でもテロリズムに走る原理主義者たちが全面的に受け入れられている訳ではありません。自らの理解に基づく原則のみを絶対として押し通していこうとすると、衝突が起こるのは目に見えているでしょう。

宗教だけではなくあらゆる分野の世界でもこの原理主義と看做しうるものは存在します。一生懸命何かを探求していく内に、その厳格な考えとは違う別のゆるやかな理解を「不純」と看做してしまう過ちを往々にしてわたしたちは起こします。昔からそうなんだから絶対に変えてはいけない、一度正しいと決めたんだから何がなんでも押し通さなければ、とする考えかたです。それを「原理主義」と呼びます。

 

中には、自らの信念だけを頼りに独創的な意見を持ち「当然こう在るべきだ」という自分の考えだけを善しとして他を顧(かえり)みないという人も見受けられます。信念ならまだいいのですが、単なるアイデアだけを頼りにかたくなに独善的な人もいます。いわばこれも「私的原理主義」と呼び得るのではないでしょうか。

 

お釈迦様の覚りの特徴は「中道(ちゅうどう)」という言葉であらわされます。つまり「現実を無視した極論からは建設的なものは何も生まれない」という意味です。ぜったいにこれでなければならない、というものはこの世にありません。様々な事情や状況で事態は変わりうるのですから対応も、絶対に何がなんでもこうでなければならない訳ではありません。弦楽器からは綺麗な音色が聞こえますが、弦を緩めすぎたら音になりませんし、弦を必要以上に強く張りすぎたら切れてしまいます。「原理主義」や「私的原理主義」によって何が何でも原則どおりを押し通していたら、どこかがきれてしまいます。逆にとりきめや規則や自分の最初のこころざしを全部忘れてしまって、だらだらとだらけて生活していたのでは悔いが残る結果になりそうです。目的や意義を考えながら微調整をしていく、そんな精神を忘れて人間社会は成り立ちません。

 

仏教教団の中では布薩(ふさつ)という行事が月に2回開催されてきました。そこで戒律の反省会があるのですが、皆んなの前で「私はこの半月の中でこんな戒律違反をしました」と告白します。極悪な罪以外はほとんど大抵の罪はそこで許されることになっています。これが懺悔(さんげ)です。リスタートが許可され、半月に1回リセットが行なわれます。緩めのルールではありますが、これが仏教式なのです。

 

ベジの道(なんか武道みたいですが)も同じです。付き合いの中でみんなと同じ食事をしなければならない時もあるでしょうし、成長期の子供の為には動物性の栄養素が必要だという場合もあります。 私は宴会などでベジをお願い出来る時は特別に作ってもらいますが、そんな場合でもかつお出汁やコンソメまで止めてくれというと料理担当者は困惑してしまいます。彼らは美味しいものを提供する義務がありプライドがあるのですから出汁まで言うのは酷です。時や場合や事情を考えて「今日のところはベジはお休み」というのはぜんぜん構わないと思います。「もういいや!やめた」ではなく何度でも再出発出来る、というのが中道(ちゅうどう)の精神です。「いいかげん」とは全く違います。