「捨て身」と「捨身」は違うのか

去年の暮れ(2013年12月)に『仏典はどう漢訳されたのか(スートラが経典になるとき)』という本を出版し評判になっている京大人文研の船山徹先生は、10年ほど前に「捨身の思想(六朝佛教史の一断面)」『東方学報京都74』(2002)と題する学術論文を発表されています。最近この論文を読み返す機会があって読んでいて、以前には気にならなかったことが気になってきました。

 

捨身といえば正倉院御物の中に玉虫の厨子というのがあってそこに描かれる「捨身飼虎」の絵が有名ですが、捨身行(しゃしんぎょう)と名付けられる一連の苦行が仏教の伝統の中にあります。これも船山先生の労作のひとつですが、岩波文庫の『高僧伝』の翻訳を見ていると、捨身行とよばれる修行を実行した高僧が多数居たことが分かります。

或る行者は自身の腕とか指を焼いて(具体的な姿を見ていないのでよく分かりませんが蝋燭の様に灯して)諸仏を供養したり、自分の耳を切ったり(これは本人の気持ちからすると地面を血で清めているつもりらしい)、何か凄惨すぎて本当にこれが「身を捨てる」ということなのか?と思ってしまいます。うっかりすると自傷行為と取られるでしょうし、ちょっとM的な感じがしないでもないですが、これらも含めて「捨身行」と呼ぶらしいのです。

お釈迦さまの前世物語で、母虎の為に自らの身を捨てて…とかいう話ならあくまで観念的なので嫌悪感は湧かないけど、耳切って血出して…とかいうとちょっと気持ち暗くなっちゃいます。

 

これとは違うタイプの捨身行もあってこっちの方はのどかです。

 

船山先生は象徴的捨身と名付けてますが、中国の皇帝の中の幾人かは民衆の為に物品や金銭を捨て(つまり施し)たり、象徴的に自分自身の身を捨したり(つまり王位を捨てて奴婢になったり。ただし、この場合すぐに側近によって買い戻される手筈になってます)したそうです。そういえば、インド後期密教の『八十四仙人伝』なんかを見てると、王が王位を捨てて奴婢になるというタイプの話は多いのでインドの伝統を引く行事だと思います。

 

さて「不惜身命」という言葉はいつも象徴的に使われます。あたかもその位の覚悟でという意味です。

自分の身体を捨てるという事態は、近代医療の中では「命を捨てる」ことと等価ではありません。臓器移植や臓器提供の事を考えると命了えた後のこともあれば、生命はそのままでの提供も臓器によっては可能です。スリランカのお坊さんの中には片目の角膜を提供した方が多く存在するという話を聞いたことがあります。

先ほどわたしは象徴的捨身が「のどかだ」と言いましたが、本当の意味での捨身は仏教の本質に関わることだと思っています。自分の煩悩をコントロールするためには行き過ぎた自意識や所有意識を改変する必要があります。つまり我執や我所執の撲滅です。

個人的にはこの所有意識というものは、我々人類の祖先が動物的本能の一環として持っていたテリトリー意識の変容だと思っているのですが、それと強く関連するものとして我々には「名誉」とか「尊厳」とかいう種類の欲望をも持ち合わせています。もし最も大切な自分の命を捨てることで名誉が得られたり尊厳が維持されるならその道を選ぶと宣言し、そのとおりに殉じた人物は歴史の中に多く発見出来ます。それらの崇高な行為に意味がないとは言う積もりは毛頭ありませんが、逆に、命は捨てないけど名誉を捨てるという人物の価値はそれよりも一様に低いのでしょうか?

 

出家というのは、社会的な位置づけを持つ一市民の立場を放棄することです。だからこそ昔は税金や兵役を免除されたのです。

つまり出家とは、命は捨てないけど社会的立場を捨てた人物を意味します。

 

ぐっと卑近な話になりますが、ヴィーガンになって間もない頃の私は、宴会に出席した時に「私のはベジにして」と言い出せなくて、ちょこちょこっとお皿に残し、メインのステーキなんかは近くの席の後輩の同僚に頼んで「お皿チェンジ」してもらって事態をスルーしていました。けど最近はずぶとくなって、堂々と幹事さんに頼んでベジ用のメニューを出してもらうようになりました。

楽になったので知り合いのヴィーガンの人に「こんな風にすれば楽ですよ」と言ったらその人が、「私は捨て身ですから社会的な評判なんか気にせず宴会は欠席します」と言われました。そう言われたとき私は、う〜んそうか、自分は「お遊び捨身」をしている昔の皇帝にちょっと似てるなと思ったのです。

まあ、私は単にヴーガンになっただけで木喰行者になった訳ではないので言い訳する必要はないのですが、「自分の社会的立場からしてこの宴会には出席しないといけないしなぁ」なんていうのは明らかに捨身ではありません。

 

「そうか、捨身(しゃしん)と捨て身は本質としては同じようなもんなんだ」と納得したのでした。