明恵上人の凄まじい求道心

鎌倉時代初期に生きた僧侶、というよりは華厳行者という表現のほうがぴったりしそうな人物ですが、正式な名前は高弁といいます。栂尾に住んだので栂尾の明恵上人という言い方が一般的です。

彼は武士階級の出身ですが、9歳で両親を失って、その後高雄の神護寺で教育を受け16歳の時に出家します。仁和寺で密教を勉強したり奈良で華厳や倶舎学という仏教哲学を勉強したり栄西に禅(・茶づくり)の指導を受けたりというように様々な修行を行ないますが、ずっと生涯釈尊を敬慕しつづけて、インド渡航というのが彼の生涯の夢だったということです。

自分の夢を記録する、という少々変わった人物だったようですが、自分に対して凄まじく厳しい行者だったようです。

 

弟子の喜海という僧が書いたとされる『栂尾明恵上人伝記』に明恵上人の食生活に関する記述があって、あまりの凄まじさにショックを受けました。

ある時覚知という名の入道が同じ栂尾に住んでいて、自分の庭で採れたナズナを摘んでそれで「味噌水(みそうず)」という惣菜(味噌漬けのようなものですかね)を作って明恵上人の処に持って訪問したそうです。

その時に明恵上人は一口食べてから左右をきょろきょろ見回して側の戸の縁に積もっていたほこりを取ってその惣菜に入れて食べたそうです。理由を聞くと「余りに気味の能く候程に」と答えたそうです。美味しいものを食べることが修行のじゃまになる、と考えたのです。

 

また別の時に、明恵上人が松茸を食べるということを聞きつけた人が松茸料理を作って明恵上人のところに持って行ったそうです。

後で事情を明恵上人が知って「松茸を好むなどと云われるのは行者として実に浅ましいことだ。これを食べるからそんな恥ずかしいことになるのだ」と言ってそれ以降、松茸を一切食べなくなったということです。

 

明恵上人は戒律どおりに午後は食事をしなかったようですし、勿論ヴィーガンでしたが、「こき味(美味な食事)」を努めて避けて生活したようです。

同時代の浄土教信者にそんなのは仏教じゃないと言って『催邪輪』という書を書いたくらいの明恵上人ですから、美味なベジ食を喜んでいるわたくし阿亜蕃仙人などの存在をもし知ったら、もうこの世は終わりだとがっかりされそうです。